裏アマテラス神社  

裏アマテラス神社へようこそ…。
お昼に明るい太陽が希望の心を照らしているのなら
夜には月が魔性の心を照らし出す…。
ここはアマテラス神社の夜の境内…。
どんな魔性が潜んでいるか分からないわよ…。

お地蔵様…。
周りからとてつもない邪気を感じます…。

昼間はその荘厳さに酔い痴れる灯篭も
夜には違う顔を見せます…。

昼間は恋愛の神様…、でも夜は神社の裏から
五寸釘の音が響き渡ります…。

今日も誰かが人を呪い、真夜中に神社の裏手の森で
藁人形を打ち付けているみたいです…。

丑の刻参り

 

 

日本古来から伝えられる丑の刻参りの起源は不明ですが、
初めて文献に現れるのは、屋台本平家物語の劔巻に登場する「宇治の橋姫」です。
内容は、嵯峨天皇の時代、夫を若い美しい女の姿に見せた龍神に奪われた橋姫は、
呪詛の神として名高い京の貴船神社に、
「鬼となり、夫と龍神に復讐させたまえ!」と、七夜祈りを捧げた。
それを聞き遂げた貴船の神は、「松ヤニで角を作り、鉄輪(かなわ)を被って、
宇治川に37日間浸れとお告げを下したのです。
お告げを聴いた橋姫は喜び、
さっそく長い髪を五つに分け松やにを塗り固め角を作り、
顔には朱をさし身には丹を塗り頭には鉄輪を頂きて、
松明に火をつけ口にくわえ、宇治川に身を投げた。
その後、橋姫はこの後鬼と生まれ変わり、夫と龍神を食い殺すし思いを成し遂げ、
夜更けの大和大路を南に走り去った…という話である。
諸説様々な学説もあり、「宇治の橋姫」についても複数の話が存在するものの、
世に伝えられる丑の刻参りのルーツともいえる話であることは間違い無い。

また、この話は室町時代に謡曲「鉄輪」として発展していく事となる…。
先妻の嫉妬により、丑の刻の呪いをかけられた男が、陰陽師阿部晴明に、
呪いを解いてもらう…という話である。
この話より、丑の刻参りと、陰陽道との繋がりの深さが伺えます。

下記は、「宇治の橋姫」についての歌

さむしろに衣片敷き今宵もや われを待つらん宇治の橋姫  『古今集』
橋姫のかたしき衣さむしろに 待つ夜むなしき宇治のあけぼの  『新古今和歌集』
網代木にいさよふ波の音ふけて ひとりや寝ぬる宇治のはし姫  『新古今和歌集』

呪詛豆知識

栄花物語によれば藤原頼通の病気は貴船の呪咀が原因だと言われています。
織田信長は比叡山を焼き打ちすることで、
呪いを絶やそうとしたが、逆にその残党に呪われ最期を辿ったと言われている。
逆に、徳川家康の大成の裏には、
信心深く鬼・神・仏を味方につけたことが少なからずとも影響があったと言われている。


奈良時代に呪禁道の「厭魅(えんみ)」を、陰陽師が呪詛の時に敵に見立てた「人形祈祷」と関係を持ちそれを刻参りの方法に取り込んだ結果です。
五寸釘は社寺の神木や社殿、あるいは神像、仏像にまで釘を打ち込み、神仏を痛めつけてまで呪咀の願いをかなえてもらおうとする「呪い釘」による呪咀法から来ています。

丑の刻参りの丑の刻とは(午前1時〜3時)。
陰陽道にいう鬼門と深く関係しており、丑の刻を艮(うしとら)、
この方位を忌み、この刻に鬼が現れたり人が鬼に変貌するとして、
人々に恐れられていた。
また、先に登場した貴船明神が貴船山に御降臨になられたのが「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」であったことも密接な関係があります。

藁人形の作法

 

丑の刻に(午前1時〜3時)神社の御神木(或いは大鳥居)に、
憎むべき相手を象った藁人形を据えて、憎しみを込めて五寸釘を打ち込む。
これを七日間人に見られる事なく続けること。
境内の神木に人に見られない様に、人形に呪いの五寸釘を打ちつける。
もしくは呪術の際に用いる杉の木を使用する際は、北東の方角に木を置き、 同じく呪いの念を送りながら五寸釘を打ちつければいいでしょう…。

1、足に五寸釘を打てば足が悪くなる。
2、胸に打てば内臓が悪くなる(苦しむ)。
3、手に打てば手ぐせが直る、浮気が直る。
4、頭に打てば一撃必殺という言い伝えがあり、
5、怨んでいる相手をひと思いに殺してやりたい時は五寸釘を一撃で打ち込むと良いとされている。

呪いが聞き届けられた場合、七日目に帰る道すがら、黒い大きな牛に出会います。
行く手を阻むこの牛を乗り越えた時点で、呪いが発動します!!

呪いのワラ人形ゲーム

リスクなしに相手を呪い殺せるかもしれないゲームです…。

さらなる呪いの世界

自殺ソング『暗い日曜日』

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